
ロシアのプーチン大統領が、わが国固有の領土である択捉島を訪問したことが、大きな波紋を広げています。
日本政府は直ちにロシア側へ強く抗議しました。外務省も、択捉島を含む北方四島について「歴史的事実に照らしても、国際法上も日本固有の領土である」との立場を改めて表明しています。
では、なぜ北方領土は現在までロシアの支配下に置かれることになったのでしょうか。
その歴史をさかのぼると、第二次世界大戦末期のヤルタ会談に行き着きます。
ルーズベルトとスターリンの「ヤルタ協定」
1945年2月、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相がクリミア半島のヤルタに集まり、戦後処理について協議しました。
この際、アメリカ側には、対日戦を早期に終結させるため、ソ連を対日戦争に参戦させたいという思惑がありました。
その結果、ソ連の対日参戦の条件として、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すことなどの密約が取り決められました。
いわゆる「ヤルタ協定」です。
重要なのは、この取り決めに日本は参加しておらず、日本の同意によって成立したものではなかったという点です。
そしてソ連は日本に攻め込んだ
一方、日本とソ連の間には1941年に締結された日ソ中立条約が存在していました。
ソ連は1945年4月に同条約を延長しないことを日本側に通告していましたが、条約そのものは1946年4月まで有効とされていました。
ところが1945年8月9日、ソ連は日本に宣戦布告し、対日参戦します。
外務省も現在、ソ連によるこの対日参戦について、当時まだ有効だった日ソ中立条約に違反したものとの立場を明確にしています。
さらに重要なのは、その後の経過です。
日本は8月14日にポツダム宣言受諾を決定し、降伏の意思を明確にしました。
しかしソ連軍は攻撃を続け、8月18日から千島列島へ侵攻。そして8月28日から9月5日までの間に、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方四島をすべて占領しました。
これが、今日まで続く北方領土問題につながっています。
日本の外交判断にも大きな誤算があった
もちろん、歴史を考えるときには相手国だけを批判して終わるべきではありません。
当時の日本政府にも、大きな外交上の誤算がありました。
戦況が絶望的になっていた日本は、ソ連との中立関係を維持し、さらにはソ連を仲介役として連合国との和平を模索しようとしていました。
しかし、その裏側では、スターリンはすでにヤルタで対日参戦について米英と合意していたのです。
日本はソ連を和平の仲介者として期待していました。
そのソ連が、実際には対日参戦の準備を進めていた――。
ここに、日本外交にとって極めて重大な情報分析と情勢判断の失敗がありました。外務省の外交文書にも、日本が終戦直前まで対ソ交渉を続け、近衛文麿元首相のモスクワ派遣まで計画していた経緯が残されています。
80年前の歴史は、決して過去の話ではない
1855年の日魯通好条約では、日本とロシアの国境は択捉島とウルップ島の間に定められました。日本政府は、北方四島について「一度も外国の領土となったことがない日本固有の領土」としています。
それにもかかわらず、戦後80年以上が経過した現在も、北方四島はロシアの実効支配下にあります。
そして2026年8月、ついにプーチン大統領自身が択捉島を訪問しました。日本政府はこれを「到底受け入れられない」として強く抗議しています。
北方領土問題を単なる「ロシアとの領土争い」として見るだけでは、その本質は理解できません。
ヤルタでの大国間の取引。
日ソ中立条約をめぐる日本の判断。
ソ連の対日参戦。
そして終戦直後の北方四島占領。
これらが連続して、現在の北方領土問題につながっています。
歴史から学ぶべき最大の教訓は、国家間の約束を信じるだけでは国益を守れないということでしょう。
相手国が何を言っているかだけではなく、何を準備し、何を狙っているのかを冷静に分析する。
80年前の日本の経験は、現在の国際情勢を考える上でも、決して過去の話ではないのです。

